こんな年にもなっての話
「あの人は( )歳にもなってドキドキし続けられる相手と結婚したいなんて言ってるから結婚できないんだよ」
というつぶやきを目にして思ったこと。
私は20代半ばで旦那さんと出会ったけど、
その時旦那さんは私たちが高校生くらいの時にめちゃくちゃ流行ったショートブーツを履いてた。
社会人で履いてる人少ないんじゃないかな?というブーツで。
「周りが履いてるときは欲しかったけど買えなかったんだよね。だから働き始めてから買ったんだよ」と照れながら笑ってた。
夫が貧乏苦学生だった背景も相まって、すごく好ましく思った。
いい年してそのブーツはダサい!かもしれないけど、
でもいいじゃん!ってなった。
我々は中年世代、これからも 今までにやり残したことをやるし、
これまでの経験を糧に今の感性で話すでしょう。
他の誰かに「まだそれ言うてんの?」って言われるのは気にしなくてよくて、
自分自身の為に自分のタイミングで色んなこと経験すればいいと思っている。
ドキドキが止まらない相手と添い遂げたいって何歳の人が思っててもよくないか?
その人はそうしたいんだもんね。
かくいう私も、母子関係のセラピーで幼少期の自分の思いを掘り起こした時
出てきた気持ちは『お母さんに大好きって言われたかった』だった。
しかも大泣きした。
30歳超えてたし、結婚もしていたけど。
ちょっとニュアンス違う話になったけど
何歳で何を思ってもいいと思っていて。
「やりたかった」より「やってみれた」が多い方がいい。
何歳でも、やれるなら・やりたいならやってみた方がいいと思う。
やってみてる人をいいじゃん!と思って見てたらいいと思う。
(まぁ中には「それはあの年齢の時できたら良かったことで、今やってみても楽しめなかったな」という種類の経験もあるにはあるけどさ)
というような話。
やったことないからわからないの話
小さい子供がいるお友達の生活を思うとき、
自分のタイミングで何もできない、予定もかたっぱしから崩れる、
子供中心の生活は実際想像を超えて大変なんだと思っている。
育休手当が出ていても子供が生まれる前の自由なお金の使い方はできないことが多いだろうし、旦那さんとのやりとりも大人2人きりとは難易度が違うんだろうなと思う。
断片的に「お金ない時に旦那さんに言って家計からお金出してもらった時肩身狭かったな」とか自分の体験から似た経験を引っ張り出して「それの何倍も大変なんだろうな」と思うに過ぎない。
…まぁでも実際のところは、自分はやったことないからわかならい。
幸いわたしは直接言われたことはないけど、友達が別の人の事を
「あの人は子育てやったとこないからわかんない」
「わかんないやつが偉そうに」
と言っているのを聞いてチクっと来たことがある。
友人の言う通り、そして自分でも思っている通り
わたしは子供を産んだことも育てたこともないから、
子育ての本当の大変さはわからない。
でもわたしだってその大変さは味わってみたいと思っていたことがあるのよ。
すごく大変だろうけど、母親になりたいと強く願ってた時期があるのよ。
わたしもわかってみたかったんだよ!
そんな簡単に”やったことないからわかんない”なんて言わないで~
と、そういう気持ちを思い出した日の話。
というわたしも”お金に困ったことない奴にはわかんない”って思うことがあって(笑)
自分は言われたら嫌なくせに人に同じことしてる。
結局みんな自分が歩いた道以外はわからないよねぇ。
約束が苦手というだけの話
今日は友人から電話したいと言われていた日で、
わたしは15時以降ならいけると言った。
15時頃に今日調子はどう?とお伺いのLINEを送る。
友人から連絡がきたのは16時過ぎ、
今は出先なので帰ってタイミングが合えば電話しようとのこと。
もともとアバウトな約束だし、タイミングが合えば電話しよう、という感じだったので特に友人の振る舞いは変じゃない。
変じゃない、変じゃないけど、
約束に構えてしまうタイプのわたしの中では
15時以降は友人との電話の約束に時間を割いている心境だったので
ちょっともやもやしてしまった。
約束は苦手だな。
あると休まらないな。
前回もそうだったな。
貴重な平日休みなのにな。
よし、今度は「当日にならないとわからないから、先に約束せんと電話したいタイミングで聞くことにしよう」と言うんだ、わたし。
友人との付き合いより前に自分自身とうまくやらなきゃな。
相手にスケジュールを渡したらだめなタイプなのよね、自分が。
現在17時半、友人はまだ出先ってことだったので
”横になってたら体調が思わしくなくなってきてしまって、電話また今度になってもいい?ごめんね”
って送って 今日のこの話は閉じました。
出先から帰って電話するの楽しみにしてくれてたかもしれないし、
そしたら私も残念な気持ちなんだけど
実際疲れてしまったから今日はもう、それでいいや。
しなくてはいけない、は嘘かもの話
ひとつ前のブログを書いていって、これも残しておきたいと思ったから少し書きます。
自分の中で思っているしなくてはいけないことを疑ってみるのは大事、という話なのですが。
これをしなくてはいけない、
こういう風にあらなくてはいけない、
逃れられない、
そういう“〜ない”のルールを自分に強いてい人いると思います。
元は周りからかけられた制限かもしれないですが、大人になった今となっては、自分で自分に強いている状態…
わたしにも自分にかけた制限いくつもありました。
だからこそ思うんですが、
“しなくてはいけない”や“してはいけない”の自分ルールの前にカッコ書きで( 嫌だけど )や( したくないけど )などがつく場合は、
まず嫌だと思ってる自分を無視しない方が良いと思います。
嫌なんだもん、だって。
そこから自分のルールを疑ったほうがいいです。
絶対できない、しちゃいけないと、言われただけで本当はそうでもないかもしれない。
しなくてはいけない、なんて自分しか思ってなくて、そんなのは嘘かもしれないですよ。むしろ1回やってみてもいいかも〜くらいのことかもしれません。
2022年のわたし、今年の漢字
わたしの2022年の漢字は「 選 」です。
自分の選択を意識した1年でした。
割と些細なことでもわたしがしたいことを選びたいし、その選択を自分自身で信頼したいと思っています。
した方がいいことでなく、したいこと…
自分のしたいことを選ぶのは、しないことを選ぶことでもあります。
去年までのわたしは、しないしたくないことをがっつり抱えたまま、その荷物を持ったままの範囲でできることをやっていた。持っている荷物については疑いを持たなかったんですね。下ろしていいと思ってなかった。
今年の春、これからはできませんと断ることでその荷物を下ろしました。
しないことを選んだんですね。
そんな思い詰めなくても したくないことを手放す選択肢もあるってわたしは伝えたいです。
手放せば当然今まで通りとはいかないでしょう。引き受けていたことを断るわけですから相手からすると多少なりと嫌でしょうね。
でもいいじゃないか!!
なんて奴だと言われても、話が違うと言われても、わたしはわたしが大事だし、わたしが嫌なんだから嫌だ!でいいと思うんです。
昨日までは耐えたけど、今日からは嫌!
やっぱ辞めます、ごめんなさい!
それでいいなと思います。
厄介事を引き受けてるわたしじゃなきゃ好いてくれない人と仲良くできなくていいです、と言い聞かせ後ろ髪をバッサリ切る!
そういう自分でありたい。
(まだ咄嗟の場面では練習中です。つい好かれたくて引き受けてしまう癖がなかなか抜けないから)
2022年は「 選 」、
2023年も楽しみだなぁと思えるいい大晦日が迎えられて清々しいです。
クリスマスの話 3(たぶん克服編)
クリスマスの話1~2と自分にとって悲しかったクリスマスの話を思い出していましたが、実はもうこの思い出に引っ張られるのは 今年で最後にできそうだなと思っています。
それこそ昨年までは、冬の気配を感じたり、クリスマスやチキンの話題になったらことごとくこの記憶に引き戻されていたのですが…
今日は12月23日、たまたま街に行く用事があり出かけました。
用事が終わって外に出るとすっかり暗くなっていて、
イルミネーションがキラキラしていました。
顔をさす冷気が気持ちいいと感じて心が躍りました。
苦手じゃなくなっていたんです、クリスマスが!
おなかも減っていたのでケンタッキーに入ってチキン2本、ポテト、飲み物のセットを頼みました。
一人でチキンを食べているときに、ついこの間までの自分だったらこうはいかなかったよな、とはじめて過去に思いを馳せました。
母とのつながりを断ち、自分の基準で暮らしていく練習をする中でそれなりに消化できている想いがあるんですね。
チキンを金額気にせずセットで食べられるようになることは、あの頃のわたしが想像するほどは煌びやかじゃない気もしますが、
それでも今日のわたしの幸せはあの頃のわたしのもがきの上にある!
クリスマスを克服したぞ とうれしくて、
ケンタッキー出た後”買い物したらもう1軒コーヒーでも飲みに行くか~”と浮かれたのですが、しばらくしたらコーヒー代が惜しくなって家でコーヒー淹れようといそいそ帰ってきました。
そういう部分を含めて わたしは今日の自分が好きです。
と、わたしの”自分の基準で暮らしていく練習”を支えてくれている夫の話もまた今度書きます。かけがえのない夫です。
今年はいいクリスマスが過ごせそうです。
クリスマスの話 2(自分に向き合い編)
前回の”クリスマスの話 1”の続きです。
前回の話は わたしのクリスマスの思い出の概要でした。
ここからが本番で、
起きたことや骨組みより わたし自身の気持ちにフォーカスします。
≪当時のわたしの思いはどうだったのか≫
・覚えているメインのイメージは、みじめな感じと悔しさ。
→本当は華やかに心躍るようなクリスマスを私も送りたいのに、何もできない。
→お金が無くてみじめ、みんなは幸せそう
→わたしのなけなしのお金で買ったチキンをそんなもの呼ばわりされたされた悔しさ
→それでも抗えない無力さ
→自分はクリスマスに1本チキンを食べることも許されないのかという怒り
→お母さんがいなければ時間もお金もあるのにという悔しさ
→お母さんも今日くらい一緒に楽しくチキンを食べてくれてもいいのに
→お母さんも喜んでくれると思ったのに
→楽しく過ごしたかっただけなのに
→こんなことになるならチキンなんて買うんじゃなかった
→もう疲れた…
そんな気持ちがあったのかなと思います。
でも当時は感じれていなかったから 自分の気持ちなんて。
だから あくまでわたしは当時こう感じていたんじゃないかな?ということなんだけど。
今のわたしがあの日の自分に会いに行ったら、まずチキンを買うか迷ってる自分に声をかける。一度家に帰って買い物した食材を冷蔵庫に入れて、財布と携帯だけもってもう一回モスにおいで、あったかいモスの中で一緒にチキンを食べよう!と提案します。
1人1本チキンと飲み物をそれぞれ自分の分だけ買って、
カウンターに横並びして外套を見ながら
”おいしいね””たのしいね””クリスマスだね”
"毎日がんばってるね””誇らしいよ”
って言って一緒にチキンを食べる。
”あなたがキラキラしたクリスマスを過ごしたいなら自分ひとりでしてもいいんだよ。
お母さんはほっとけばいい”
”自分のしたいことを少しずつ叶えるのは楽しいね”
そう言って笑いかけたい。
ちゃんと目の前の幸せをかみしめさせてあげたい。
何一つ踏みにじられないように、助けてあげたい。
今のわたしはそう思います。
部屋でパサパサのチキンを食べてる自分の前に会いにいったなら、
”今、しんどいね。限界だね。せっかくのチキンだったのにね””なんでお母さんってああなんだろうね”って抱きしめて、まずは自分が悲しいってことを気づかせてあげたい。
このブログを書いていて、泣きそうになった箇所があります。
それは
『ちゃんと目の前の幸せをかみしめさせてあげたい。
何一つ踏みにじられないように、助けてあげたい。』
と書いていた時。
『ちゃんと目の前の幸せをかみしめさせてあげたい。
何一つ踏みにじられないように、助けてあげたい。』
そんな風に誰かに(本当はお母さんに)思ってもらいたかったよね。
…この自分の気持ちを蓋したままにせず、
拾ってあげられるようになった今はいい調子。
クリスマスの話、もう少し続きます。
(”クリスマスの話 3”へ)