クリスマスの話 1(悲しかった思い出編)
この時期が来ると悲しかったクリスマスの思い出がよぎります。
あれは10年以上前 まだ20代になりたてのクリスマスのことでした。
当時母がわたしの借りている6畳一間に居候をしており、
わたしは二人分の生活費を稼ぐため 一人の時よりそれなりに仕事も増やし、
当時生活費を除けば自由になるお金が数千円しかありませんでした。
働かずずっとわたしの部屋で引きこもっていた母は時間を持て余しあらゆることに口出しをしていましたし、わたしは母の機嫌を伺いできるだけ怒らせまいと暮らしていました。
ひとことで言うと窮屈な毎日でした。
お金もなくて行動も制限されて 仕事も忙しくて。
さらに当時恋愛もうまく行っておらず、何もかも低迷していました。
当時の記憶は 全部薄曇りです。
クリスマスの話に戻ります。
その日はたまたま仕事が休みでした。
近所の本屋さんで立ち読みをし 用もないのにドラッグストアでコスメを見たり 新作のシャンプーの嗅いだりして 時間を潰すいつものコース。
一通り楽しんだら2人分の食料を(当時主食は安いうどん)を買いにスーパーへ行きます。
いつもなら そのまま家に帰るのですが、クリスマスということもあり なけなしのお金で2本モスチキンをテイクアウトしました。
クリスマスっぽいことをしたかったんですね。
わたしはスーパーの袋とモスチキンを持って家に帰りました。
それなりに誇らしい顔で包みを見せたんじゃないかな?と思います。
だって当時のわたしには贅沢品だったから。
でも、わたしが買ってきたチキンを見て母は激高しました。
”そんなことしてるから本当に欲しいものが手に入らない”
”あんたたち一族はみんなそう。目先のものに目がくらんで何ひとつ本当に欲しいものは手に入れられない”
”クリスマスやからってチキンたべないといけないか?そんなことしてるから男にも逃げられる”
そんなことをカンカンになってまくしたてられ、しまいには固くなってしまったチキンをわたしひとりで食べました。
チキンを買ったとき、わたしはお母さんと楽しくチキンを食べながら 暖かい部屋でクリスマスの番組を見る未来を想定していたと思うんですよ。
今となればチキンは1本だけにして暖かいコーヒーも頼んで店内で自分のクリスマスを過ごせば ささやかながら悪くないクリスマスになったと思うのですが。
と、まぁ、そういうクリスマスの思い出があります。
(”クリスマスの話 2”につづく)
自己紹介
家族の機嫌を伺いながら過ごした幼少期。
三十代になってもわたしの“顔色を伺う癖”は変わっていない。
今振り返ると、何かを決める時一番初めに考えるのは「それをすることで、母親の機嫌を損ねないか」ということだった。
意識的に行うのでなく反射のように、当たり前に判断の基準になっていた「母親に怒られないか」という視点。
それを改めて、他人の機嫌に左右されずちゃんと自分の思ったことを話して人と関わりたいと思った。
しかし母親と離れ自分を見つめ直す今でも、会社や友達などあらゆるコミュニティの中で周りに嫌われないように立ち回る思考の癖は抜けない。
わたしは自分の意見が言えない。
出来ません、が言えない。
相手がほしそうな答えを予測して発してしまう。
あたかも自分がそうしたいようなふりまでして。
相手を不機嫌にしたくないし、嫌われたくないし、何より 自分がどうしたいかわからないことが多いのもある。
ずっと自分がどう感じるかを判断の基準にしてこなかったわたしにとって、
その時 自分がどう感じているか、どうしたいのかは、一呼吸時間を置いて考えないとわからない。
(自分が感じていることを汲み取る回路が死んでいる、とわたしは思っている)
人の会話はあまりにスピーディーなので流れに乗って会話をしていると、わたしの思いとは切り離された聞こえのいい事がつるつると口から出ている。
だから、わたしは意識をしてアイメッセージを使う練習をしています。
アイ=I(わたし)
わたしはこういうのが好き!
わたしはこう思う!
わたしは自分の考えを文字に起こして形にして、出来れば誰かに見てもらって共感してもらいたいと思った。
そういう思いで始めたブログです。